火曜日, 10月 04, 2005

自発的対称性の破れ

自発的対称性の破れといえば,量子場の理論で有名だが,流体力学にもある.
ようするにReynolds数が大きくなるにつれて,wakeで双子渦ができてその対称性がやがて破れて,所謂Karman渦になるというそんな話.
このことは,卒論生の頃,物理の岡村先生と輪読をしていたとき,幾度か話題にのぼった.
それ以来,やはりこの対称性の破れについて,いつも頭の片隅に意識されている.

双子渦からKarman渦への移行過程における対称性の破れについて,そこに積極的な破れの要因があるようには思われない.あるとすれば,実験過程での人 工的な擾乱要素の方が大きいように思う.しかし,数値実験でやればこの人工的な擾乱要素は限りなく少なくできるだろうから,そこでもKarman渦へ移行 するという破れが確認されるなら,やはり何かしらの対称性を破る要因があるのだろう.どちらの渦が先に放出されるか否かというのも興味深い.

しかし,やはり自分には,理論上はかならず対称性が保存されるように思えるから,或はもしかすると,みかけでは対称性が破れているようでいて,実は何らかの形で保存されているんじゃないかとそんなことを思う.

対称性だけでなく,自然そのものは必ず保存形式で完全に記述されると思う.否,されなければならない.保存されないように見える量もほかの何がしかの量で 考えれば全体として保存されているというような,そういう理屈で.当たり前すぎる論理ではあろうが,局所を見て,大部を見誤ることもあるから,グランドス トラテジーとしての,保存形式は常に意識していたいと思う.

最近では今井先生の著述を読んで,時間というもう一つの独立変数について,ちょっとすると特別視しがちだが,じつは空間的な独立変数と何らかわりなく,こ のあたりにひょっとすればキーがあるんじゃないかと思う.別に相対論なんぞを持ち出して哲学的論争をするなどというつもりではない.流れなんてものは時間 がなければ存在しない概念であり,その意味では時間というのは特別ではあるが,タイムスパン如何では自分たちの見る流れとは別の流れがあるはずである.我 々が見ている流れというのは流れの一形態にすぎず,その一形態の複雑さによって本質が見えにくいだけということも考えうる.目の前にあるそれだけが絶対的 なものではないという意味で,時間変数というのはちょっと面白い存在だなあ,と漠然と考えている昨今である.

以上,現実逃避のための駄論にござる.